降り出した雨は、また本降りになった。
山本は傘を持たずに出かけたから、もう暫くは帰って来ないかもしれない。
獄寺はそんなことを考えていた。
それとも、濡れて戻るのだろうか。
雨の音は聞こえなかった。部屋の中にはさっきから、空調と、何か小さな音だけが響いている。リビングのテーブルの下、不思議な姿の生き物が獄寺のボックスを齧っている。その音だった。
「まだやってんのかよ」
生き物は返事をしない。身体よりも長い尾が、別の生き物のように床を叩いている。
「腹は減ってねえはずだろ」
生き物は喉を鳴らした。不平を唱えているみたいだった。
獄寺の嵐の獣は、初めから子猫の姿をしていた。どう言うわけかは、獄寺にもわからない。本当は、猫科の獣の子供なのだろう。小さな身体をしているくせに、一人前に食べ物をねだる。
「食ったばっかじゃねえか」
獣のために、置き放しなされている皿の中身は、きれいに空になっている。朝と、それからさっき出かける前に、山本がミルクをいれてやったはずの皿だ。
獄寺は、笑う。
溜め息のように、息をつく。
ボックス兵器は餌なんて食べない。そう獄寺は言ったのに、山本は嬉しそうに餌をやっている。
──『仲良くなるには、食餌と寝床、っていうじゃねえか』
──『バカ言ってんじゃねえ』
おかしな理屈をと思ったけれど、そう言えば獄寺自身、まったく同じ手管で落とされたのだ。10年には少し足りない昔の話、面白くもない思い出話のひとつだった。
思い出すとは思わなかった。獄寺は思い、雨ばかりが続くこんな日には、心の中の開かずの扉が軋むのかもしれない。そんなことを思ってみる。誰でもが、ロクでもないでもないような思い出を、思い出したりするのかもしれない。
──山本は、
きっと、濡れて帰ってくる。そんな気がした。
銀の皿を手に取ると、獄寺は立ち上がった。小さな皿は本当に銀かなにかでできている。懐かない獣に与えるにしては、贅沢すぎるものだった。
──『獄寺みてえな、猫だからな』
──『猫じゃねえよ』
あのときは、別な言葉に気を取られていたから、山本が言った言葉の意味を、そう言えば自分は聞いていなかった。獄寺は考える。
嵐の獣が、爪の音をたて、小さな声で鳴いた。声までが、本当に子猫のようだった。
「聞こえてるぜ、嵐猫」
獣は唸り声で返事をする。猫、と呼ばれたそのことが、気に入らなかったようだった。
「俺より耳が良くなったら、パンテーラだってみとめてやるよ」
獣は獄寺の足を払おうとした。長い尾が、床を掠めた。そんなところばかりが兵器らしい。獄寺が笑うと、嵐の獣は、不思議そうな顔をした。
ドアの外に、獄寺の耳は聞き慣れた足音を聞いている。
「ただいま、獄寺ぁ」
山本の声だった。
玄関に立つと、さすがに少し雨の音が聞こえる気がした。けれど、雨音はすぐに聞こえなくなった。気のせいか、それとも雨が弱くなったのかもしれない。
山本は頭から水を被ったみたい、泳いできた人みたいな格好だった。雨水を滴らせ、立ったままでいる。
「そのまま、あがるなよ」
「オッケ」
獄寺がタオルを投げてやると、山本は器用に受け止めた。メルカートの袋は濡れたまま、床に置き放されている。
「腐る物はねえのかよ」
「果物だけ。冷蔵庫にいれとくか」
「どれだ」
獄寺は、紙袋の中を覗き込む。山本は濡れていたけれど、袋の中身はほとんど濡れていない。
山本らしい雨の避け方だった。
「一番上。ももがあるだろ」
この時期に、山本が桃だと言うのはプラムのことだ。紙に包まれた小さな箱は、雨を避けられていたらしい。獄寺は果実のひとつを口に含む。歯をたてると、甘い香りがする。
「すっぱくねえ?」
「旨いぜ」
「どら」
山本は獄寺の指先に唇をつける。
「本当だ」
甘いかどうかなんて、口実だったみたいなやりかただった。
プラムの匂いの息を吐くと、山本は顔をよせて来る。
「いい匂い」
わかりきっているその意図に、獄寺は苦笑する。
「冷蔵庫の方が、先だろが」
山本を押しのけて、獄寺は紙袋に手を伸ばした。プラムの包みを取り出すと、思いついて、別の包みを持ち上げた。
「チーズは常温でいいんじゃね」
「オマエはシャワーを浴びんだろ」
山本は少し残念そうな、納得したような顔をした。
「了解」
キッチンに滑り込むと、獄寺は本当に食べる物がなかったのだと言うことに気がついた。ふいの休暇が取れたから、冷蔵庫は空に近かった。そう言えば、ワインも冷えていない。そんなことを思い出す。
「山本、」
山本は頭からタオルを被ったまま振り返る。ちょうど、メルカートの袋からワインの壜を取り出したところ。自分自身の雨を払うことは、忘れているみたいだった。
「買ってきたなら、まとめて言えよ」
「こっちは、セラーの方がいいんだろ」
冷蔵庫では冷えすぎると言いたいのだろう。山本は近ごろは、獄寺よりもワインの扱いにうるさくなった。
──凝り性だとは、思わなかった
けれど、初めてこの国に来たころには、水の味が違っていると、そんなことを言っていた気がした。獄寺とは比べ物にならぬほど、山本の味覚は敏感なのかもしれない。同じものを食べていても、思うところはいつでも違っている。
昔話ばかりを思い出す。どうしてだろう、と獄寺は思う。それから、こんな天気のせいかもしれない、と考える。
それとも、久しぶりの休暇だからだろうか。
「冷蔵庫に、一本もねえんだよ」
「獄寺、飲み過ぎだよ」
たまの休暇が重なった。山本がまでが家にいる。こんなことは、珍しい。
「ウルセエ」
山本の髪に触れ、獄寺はタオルに手をかける。外にはまだ、音も無く雨が降り続いている。雨の気配だけがある。
「床が濡れんだろうが」
「悪りぃ」
梳くように、獄寺が髪に指を通すと、山本は目を細めた。
「獄寺、上手だな」
乱雑に髪を拭いてやっているだけなのに山本はそんなことを言う。気持ちが良さそうに目を閉じている。
「バカ言ってんじゃねえ」
こんなことは、誰がやっても同じだろう。獄寺はそう思っているのに、山本は目を閉じたままだった。目を閉じたまま、笑っているような表情をした。
本当は、山本がしきりに獄寺の髪に触れたがるから、獄寺も同じことができるようになった。普段なら、口にはしないそんな言葉を、獄寺はうっかり口出しそうになる。
やっぱり、雨のせいなのかもしれない。
──こんな日には、
音の無い雨の降るこんな日には、獣も狩りを休むから、心の奥の本当の言葉を口にしてしまいそうになる。誰かが言ったそんな言葉を、獄寺は思い出していた。思い出の声はイタリア語だったから、それもまた、きっと昔に聞いた言葉なのだろう。
「いいワイン、買ってきたからさ」
「なんだよ」
山本は、獄寺の髪に頬を刷りよせる。
「冷えるまで、一緒にシャワー浴びよ」
「バァカ、」
まるで、大きな子犬にじゃれつかれているよう。獄寺のしていることの、お返しだと言っているようだった。
「獄寺も、濡れたじゃねえか」
「誰のせいだよ」
答えは無く、触れて、離れるだけの口づけを、山本はただくりかえした。
「なあ」
言い訳も、こんな誘い方も、山本は随分と上手くなった。
獄寺は、思う。
──こないだまで、犬っころみてえだったくせに
獄寺の後をついてまわる山本を、獄寺は子犬のようだと思っていた。
けれど、
──今のオマエは、
立派な猟犬。
鋭い爪と牙を持つ、狩りをする生き物だった。
狩りをするのは、楽しいだろうか。獄寺は考えてみる。こんな日に、そう思うと可笑しかった。
「俺はスモモが食いてえんだよ」
唇だけで笑おうとしたのに、笑い声がこぼれ、山本は困ったような顔をする。
「獄寺ホントに、猫みてえだな」
「なんだよ」
山本の言葉の意味は、やっぱり獄寺にはわからなかった。
「獄寺の猫に、そっくりだぜ」
「似てねえし、猫じゃねえ」
言葉も無く、獄寺を見おろす山本に、獄寺は少し眉をよせる。困らせたいわけではないのだと、自分で自分に言い訳をした。
けれど、
「パンテーラだっけ」
「そうだ」
本当に、困らせるつもりはないのだろうか。それもまた、獄寺にはわからなかった。
「やっぱ、似てるよ」
山本は、独り言みたいな声をだす。
「なにがだよ」
「猫みたいだけど、パンテーラだし、」
「は?」
「なついてくれてるって思ってるのに、難しいのな」
──そんなこと、思ってったのかよ
「スモモより、俺のほうが良くねえ」
「バァカ」
──山本は、
なんにもわかっていない。子供の頃、繰り返していた言葉を、獄寺は思い出していた。山本は獄寺の耳元で、小さな笑い声をたてている。
あの頃から、10年も経っている。そんなことを、獄寺は思う。
──10年も、たってるのに
いつまでたっても、お互いのことが一番わからない。
「なつかねえなら、檻にいれちまうぜ」
溜め息のように唇を重ね、濡れたシャツ越しに抱きしめられた。獄寺は山本の腕に爪を立てる。猫のようだろうか、と自分で自分に思ってみる。
笑えない、冗談みたいだった。
「檻なんて、いらねえんだよ」
「俺は、欲しいな」
「大バカだな」
天井の明かりがわずかに揺れた。風のある日ではなかったのに、獄寺が思うよりも早く、明かりが落ちた。
「停電?」
「知るかよ」
そうかもしれないし、違うのかもしれない。長雨の続くこの時期には、このあたりではよく電気が止まる。山本が生まれた国とは、なにもかもが違っている。
獄寺は手を伸ばした。電灯のスイッチを切った。音も明かりもいらない、そんなことを思っていた。
「獄寺?」
「シャワー、浴びるんだろ」
返事は待たず、獄寺は少し背伸びをする。目を閉じて唇をあわせると、音ばかりが響くようだった。
──こんな日には
獄寺は思う。
音の無い雨が降る、こんな日には、誰の心でも開かずの扉が開いてしまう。言わないはずのその言葉を、言ってしまいそうになる。たとえば、雨の音は聞こえない。だから雨の向うにずっと足音を探していた。そんな言葉を。
「ワイン、結局冷やせねえな」
「いいだろ、別に」
何が可笑しかったのか、山本は笑った。笑いながら、獄寺を抱き上げた。
「いいワインなんだからさ」
「なんだよ」
「ロックで飲んだりしねえでな」
「ばぁか」
山本は、落とさぬように、獄寺の身体を抱えなおした。床に落ちた雨水が、いくつもの水溜まりをつくっている。
まるで、猫の足跡のように。それとも、猟犬の足跡のように。
──檻なんて、いらない
獄寺は、思う。
あいかわらず、雨の音は聞こえなかった。だから、
──もう、これ以上は
檻なんて、いらないのだと。
END