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ジョットは小鳥を呼んでいた。
強い風に煽られ、いくつもの翼の音が聞こえていた。
「随分、鳥をよせるのが上手いな」
「そう?」
春になれば、もっと増えるよ、とジョットは笑った。執務室の窓の向う側は、街を見おろす断崖だった。ジョットはいつもそこから、身を乗り出しては鳥を集めている。
無防備なことこのうえない、狙撃でもされたらそれまでだ、雨月はそんなやりとりを思い出していた。
窓からの直線をひける範囲には、本当は空しかない。だから狙撃なんてされないと言うのがジョットの側の言い分だった。
雨月は笑った。
頬に刺青のあるそのひとは、その時も、怒ってはいたけれど、とても楽しそうだった、と。
──いつも、
口にするセリフとは裏腹に、彼は案外楽しそうにしている。特に彼の幼なじみ、ドン・ボンゴーラといる時にはよく笑った。それは自分の思い過ごしではないはずだ。雨月はそんな風に思っていた。
──それでも、
夕べは雨月の近くでも、楽しそうに笑ってくれたのだ、と。
「思い出し笑いかい?」
「まさか」
ジョットはソファに腰を降ろす。窓は閉めて来たのだろう。雨月のためのコーヒーを手にしていた。
「鳥の餌は入っていないよ」
と、冗談ともつかない言葉を口にする。
温かい飲み物に、雨月は口をつけた。不思議な味がする、そう思っていた飲み物も、いつの間にか美味しいものだとわかるようになった。それでも、わからないと思うことは、いつだってなくなりはしないのだ。そんなことを考える。
それは雨月が、この国ではよそ人だからだろうか、それとも別の理由があるのだろうか。考えてみたけれど、それもまた、わからないことのような気がした。
雨月は溜め息をつく。顔を上げると、ジョットと目があった。
「どうかしたかい」
ジョットは何か面白いことでもみつけたような顔をしてた。
「なんだ?」
「掌なんか見つめてる」
指をさされ、雨月は自分が掌を広げたままでいたことに気がついた。無意識にそうしていたのかもしれない。つい今まで、その掌を見つめていた。そんなことを、夕べから幾度となく繰り返している。そのことにも、本当は雨月自身が気がついていた。
「手相見でも、紹介しようか」
雨月は笑った。
「やめておこう」
「そう?」
どうと言うこともない、そう言うと、ジョットもまた笑った。
「きれいな鳥に、逃げられてしまっただけだ」
雨月は思う。
──源氏物語の姫君のように、
そのひとは形見のひとつも残さなかった。鳥が、手の中をすり抜けて行ってしまうようだった。それだけのことなのだ、と。
「夜飛ぶ鳥も悪くはないよね」
ジョットは、なぜか、そんなことを言った。
「飛んで行ってしまったがな」
「そうかい?」
少しだけ、ジョットは口の端を引き上げるような笑い方をする。それは、どうかするととても人が悪いようにも見える笑い方だった。
「街の女の子達が嘆いてたよ」
コーヒーカップを持ち上げる、小さな音が響いた。
「何をだ?」
「雨月はこの国の女性には興味が無い、って」
ドン・ボンゴーラは人の心を見透かす眸を持っている。人の心が見えるのだ、と、そんな町中の噂話を、雨月は思い出していた。
「それは酷いな」
思わずのように、雨月は笑った。本当に、ドンボンゴーラはなんでも知っているのかもしれない。そんなことを考えた。
「夜飛ぶ鳥には名前がないのか?」
試しに聞いてみたけれど、
「さあねえ」
はぐらかすような答えが帰って来ただけだった。
「鳥に、聞いてみたらいいじゃないか」
「聞いたのだが、教えてくれなかった」
コーヒーカップを持ったまま、ジョットは笑い出した。どうやら本気で可笑しかったのだろう。カップを置いても、ジョットは笑い止めなかった。
「そう笑うものではない」
「ごめん、って」
謝罪の言葉を口にしたくせに、ジョットやっぱり、笑い止めなかった。
「全く、おまえは人が悪い」
口に出して言うと、ジョットはまた笑った。人が悪いのは本当なのだ、と雨月はそんなことを考える。
──ただ、
「よく、言われるんだよ」
それはいささか、不穏当な答えだったけれど、
「なんだい?」
ジョットの立場にある者になら、それは雨月にとっての剣よりも役に立つ。そういうことなのかもしれなかった。
「いや」
雨月は思う。夜飛ぶ鳥には名前が無い。その理由も、やっぱりそう言うことなのだろうか。
もう一度、雨月は自分の掌に目を落とした。その掌もまた、生涯を、剣を掴んで生きることを定められた掌だと思っていた。けれど、きっとそう言うことではないのだろう。
夕べ、雨月の指の間をすり抜けて行ったその人の掌は、銃を扱う部分だけが、固く冷たくなっていた。
──なぜ、
鳥は名前を教えてくれないのだろう。雨月はそんなことを考える。
雨月が黙り込むと、ジョットは少し、目元でだけ笑った。強い意志を宿す眸が、そう言う瞬間にだけはわずかに揺らぐ。雨月もまた、同じように笑ってみる。お互いに、黙って自分のカップに手を伸ばした。
締めたはずの窓を揺らす、強い風の音が聞こえた。春が来る、季節の変わり目の風なのだと、少し前にジョットが言った。その風のようだった。
部屋は寒くはなかったけれど、ジョットは掌を暖めるように、両手でカップを持っていた。
「お父上は、息災かい?」
「息災すぎるくらいだな」
殺しても死なない、とつけ加えると、ジョットは楽しそうに笑った。そうして初めて、雨月はこんな風に笑う友人を見るのが、久しぶりなのかもれないことに気がついた。
この国は、確かにとても美しい。
──けれど、
雨月は思う。
「ジャッポーネの春は、とても美しいぞ」
覚えたばかりのこの国の言葉で、雨月はそう言ってみる。
「里心でもついたかい?」
「いいや」
ジョットの言葉に頭を振った。今は雨月自身の話では無いのだ、と思う。
「いつか、おまえと嵐どのにも見せてやりたいと思ってな」
閉め切ったままの窓の向うで、風が音をたてる。その音が、唸るように聞こえた。木立を渡る風の音は、波の音のようだった。この国へ辿りつくまでの船の上で、雨月が聞き続けた音だった。
「そうだね」
それは、たくさんの鳥が飛び立つときの、翼の音にも似ている。
「いつかまた、来るといい」
「ああ」
ジョットはコーヒーポッドを持ち上げた。暫くそうしていたけれど、二杯目のコーヒーを注いだ。
「ねえ、雨月」
「なんだ」
「聞いてどうするつもりだったんだい」
なんのことだ、と雨月は問い返しそうになったけれど、
「彼の、本当の名前」
ジョットの言葉を聞く前には、何を聞かれたのかがわかっていた。雨月は首を振る。その答えは、本当は雨月にもわからなかった。
「嵐どのにも、同じことを言われたな」
「そう」
ジョットは目を上げた。少し驚いたようだった。
「なんて?」
「聞いて、どうするのだと」
また少し、ジョットは笑った。雨月は息をつく。
「それで?なんて答えたんだい」
──ただ、
「呼んでみたい、と」
少しの間、ジョットはそのまま雨月を見ていた。呆れているのかもしれない、と雨月は思ったけれど、
「君らしいな」
ジョットの声は、呆れているようではなかった。少しだけ、笑ったような声だった。
「揶揄ってくれるなよ」
「揶揄ってるわけじゃない」
ジョットは両掌をあげる。それは小さな降伏のジェスチャーだった。それでも、
「誓うよ」
そんな言葉を口にした。
自警団のボスが使う、誓いと言う言葉の意味を、雨月は考えてみる。彼の友人はよく人の悪い戯れを口にする。けれど、今のジョットは不山戯ているようには見えなかった。
「コーヒーをどうぞ」
差し出されたカップには、雨月のための飲み物が注がれている。
温かい、カップだった。
「ねえ、雨月」
と、ジョットは一度言葉を切る。
「Gは、本当に教える気がない相手には、忘れたって答えるんだよ」
「自分の名をか」
「うん」
本当の名を忘れてしまうなんて、そんなことがあるはずがない。
──源氏物語の姫君のように、
雨月は思う。
薄衣の一枚すら残さずに、そのひとは雨月の前から消えてしまった。その、わけを。
──あのとき、
彼は振り返りすらしなかった。けれど、
「どう言うことなんだ」
「それを、俺に聞いちゃだめだろ」
開いたままでいた掌を、雨月は握りしめてみる。そしてもう一度、開いた。
「そうだな」
「そうだよ」
窓を揺らす風の音は、さっきよりも強くなっている。
春の風だ、とジョットが呟く声がした。
閉めたままのガラス窓に、ジョットは眩しそうに、目を細めた。
「本当に、いつか君の国の春を見に行きたいねえ、」
三人で、と、呟いた。






end