夜の病院には音がない。
まだそんなには遅い時間ではないはずなのに、聞こえるのは機械の音、それから時計の音くらいだ。獄寺がリンゴを剥くたびに、静かな音が響いている。
まるで、夜明けを待つ時間のようだ、と獄寺は思っていた。ナイフの先を滑らせてしまい、血の滲んだ指先を口に含んだ。
獄寺は思う。家を飛び出してから、随分と色々な場所で夜明けを待った。それでも、どんな場所でも夜が明ける少し前、嘘のように静まり返る時間があった。夜に生きる生き物が眠り、昼の生き物はまだ起きることも無い。あれは、そんな時間だったのかもしれない。
──引き潮の時間
夜明け前は、人が一番生まれ、そして死ぬ時間だと言う。
──縁起でもねえ
獄寺は舌打ちをした。馬鹿なことを考えている、と思う。出生と死亡の時間、それは少なくとも今ではないはずだ。
それから、
「カンタンだって、言わなかったかよ」
眠ったままの山本に、独り言のようにつぶやいた。
──『カンタンだぜ』
笑い声のような山本の言葉は、獄寺の記憶の中にしか響かなかった。
「カンタン、じゃねえよ、バァカ」
山本がカンタンだ、と言ったのはリンゴの皮を剥くことだった。そんなことが、獄寺には未だにできないでいる。
皮を最後まで繋げたまま、一度も切らずに剥くような、そんな剥き方ならいくらでもできた。いつか山本がやってみせた、ウサギの形に見える剥き方が、獄寺にはできないのだ。
──『繋げて剥く方が難しいんじゃね』
獄寺は、山本の言葉を思い出す。そう言うところが腹立たしいのだ、と考える。
獄寺にはできないこといろいろなことを、山本はカンタンだと言い放つ。基本的に、山本にはその手の配慮が無い。初めのうち、獄寺は馬鹿にされているのかと思っていた。それから、そうではないのだと気がついた。獄寺のすることにいちいちかまう、山本なりの理由に気づかされたのは、それからずっと後のことだ。
──バカなんだ
オマエは
けれど、本当に馬鹿なのは自分なのか山本なのか。そう問われたら、獄寺にはわからないような気がした。
──明日は、
とても大切な日なのに、と獄寺は思う。
こんなところで、こんなことをしている。
──帰らねえと、
作りかけのウサギを、ワゴンの端にのせ、獄寺は立ち上がりかけた。けれど、結局できずに座り込んだ。
山本は眠っている。
──油断、しやがって
とてもよく、眠っている。
眠ったままの山本の身体には、たくさんのチューブが繋がっていた。
こんなにもたくさんのチューブが、山本の命を繋いでいる。それが、獄寺には不思議なことのように思えた。
けれど、不思議なのはこんなにもたくさんのチューブが人間の身体に繋がっている、ということではない。こんなにもたくさんのチューブが無ければ、山本の命をつなぎ止めておくことはできない、そのことが不思議だった。
──帰らねえと、
帰って、眠ったほうがいい、獄寺は考えていた。けれど、眠れないことはわかっていた。少し息が苦しいような気がして、獄寺は山本のシーツに頬をつく。消毒薬の匂いに眉を顰める。それは獄寺が知っている山本の匂いではなかった。
夜明けを待っているような気がするのは、眠れぬ予感がするからだろうか。
──ガキのころから、
こんな風に、眠れないまま朝を待っていた。獄寺は、そんなことを思い出していた。
──ガキのくせして、一丁前に、
幼い頃の獄寺は、眠れぬ癖を持っていた。
眠れぬ夜は、よく、まじない遊びの呪文を唱え、眠れますようにと願っていた。
──馬鹿だな
幼い自分のしていたことに、獄寺は少し、笑った。あのころでさえ、そんな呪文には効果がない、それはきっとわかっていたのだ。
ベッドの上に手を伸ばし、獄寺は山本の指に触れてみる。血の染みのついた爪の先に、指を近づける。
──いつだって
ごっこ遊びのまじないが、叶えてくれた願いはなかった。
獄寺は目を閉じた。
夜が明け、辺りが明るくなる頃に、ようやく眠れる獄寺の癖は、今も時々ぶり返す。だから、山本の隣で眠る時には、つなぐわけでもない指先を、どちらともなくよせあっていた。
まるで、ごっこ遊びの呪文のように。
──でも、
獄寺は目をひらく。
──オマエは、すぐ目を覚ますんだよな
眠りの中で笑うように、獄寺は少し、唇だけで笑った。
夜明け近く、山本はいつも、獄寺よりも早く目を覚ます。眠りが浅いわけではなく、走る為に目を覚ますのだ。獄寺がようやく眠りに落ちる頃、山本は夜明けの町へと走り出す。だから、山本の足音を追いかけながら、獄寺はまた眠りに落ちた。規則正しい足音を追いかけているあいだ、眠りに落ちることは、呪文よりもたやすかった。
獄寺は思う。
今ならば、夜明けに願う願い事は、『山本よりも上手く、リンゴのウサギがつくれますように』だろうか。
ごっこ遊びの願い事は、いつだって叶わないことになっている。
──『山本よりも上手く、リンゴのウサギがつくれますように』
目を閉ざし、まじないの言葉を唱えれば、料理は愛よ、と、誰かの言葉が思い浮かんだ。
──そんなわけ、あるかよ
口癖のようなその言葉に、獄寺は声には出さずに逆らった。愛でリンゴが剥けると言うなら、そんなに簡単な話はない。けれど、もしかしたらそれもまた、姉なりのまじないの言葉だったのかもしれない。
本当の、簡単ではない願い事は、決して叶わないことになっている。
──愛で、
獄寺は目を開いた。山本の指先に指を絡めた。夜明けに走る足音を、自分はきっと、もう二度と聞くことがない。
それでも、
──愛で、奇跡が起きますように
幾度も唱えたまじないの言葉を、獄寺は口の中でつぶやいた。
──愛で、奇跡が起きますように
と。



継承式までは、あと数時間もなかった。




*This small episode featured on between Target 294 and 295.


end