いつの間にか、空はもう薄青かった。こんなことまで夏の名残だとでも言うのだろうか、日が落ちた後なのに、空はまだ明るい。
山本は考え込んでいる。風が吹き、山本の髪を揺らしていったけれど、山本はまだ、顔を上げなかった。
獄寺が、人魚の話を知っているか、と、そんなことを訊いたからだった。
──そんな、考え込むことかよ
そうではないような気がする。
「アンデルセン?」
──オマエな、
獄寺が口を開きかけたとき、ようやく、けれど随分まともな答えが帰って来た。獄寺は今度は人魚は馬鹿だったと思うか、と尋ねてみる。笑い出すかと思ったのに、山本はまた考え込んだ。随分と長い間、山本は黙って考えていた。
それから、
「俺も馬鹿だから、わかんねえけど」
人魚にも、人魚の事情があったんじゃやねえのかなあ、と、山本は獄寺が思っても見なかった言葉を口にした。
「事情ってなんだよ」
「そりゃ、わかんねえって」
そんな言い方が可笑しくて、獄寺は思わず笑ってしまった。つられたように、山本も笑った。
「俺だったら、」
「お前だったら、」
二つの声が重なった。目が合うと、山本は照れ隠しのように空を見あげた。
「俺だったら、どんな事情があっても、諦めたりはできねえけどな」
山本の声はなんだか、独り言みたいな声だった。
──意気地がねえな
いつも、獄寺が持て余すくらいつきまとうくせに、山本は肝心なところで弱気を見せる。
それはきっと、山本自身も気がついていない癖のようなものだった。
「なに?」
獄寺は少し、笑う。
「ちっとは、感心したんだよ」
季節外れ、群れにはぐれた蝉の声が、こんな時間に鳴いていた。風が、獄寺の制服と山本のユニフォームをおんなじように揺らして行った。
「テメエにも考える頭はついてたんだな、ってな」
「ひでえな」
山本の笑い声が響いた。
「帰ろ、」
山本は獄寺の手に手を重ねる。指切りみたいに指を絡め、獄寺の手を引いた。
「お前んちなら」
「腹減ったか?」
「バァカ」
どちらかそうしたのかわからなかったけれど、お互いにキスができるほどに顔をよせていた。
──大嫌い、だった
獄寺は思う。こんな風に笑うところも、その笑顔を獄寺に向けるところも。
──こんな風に、
手を伸ばせば簡単に、手に入ってしまいそうなところも。
笑った形の唇に、山本が唇をよせて来る。逃げ出そうかとも思ったけれど、獄寺は目を閉じた。大嫌いだよ、ともう一度、考えてみる。
──そんな風にカンタンに、
弱味を見せてしまえるところも。
──人魚姫、
獄寺は、少しだけ目を開く。自分ではない笑顔のことを考えていた。
人魚姫、それとも、ピアノのお姉さん、だろうか。獄寺にも、もうどう呼べばいいのかはわからなかった。けれど、記憶の中のその人は、見覚えのある髪の色をしていた。少しくすんだ、銀色の髪だった。
──俺はあんなに、無邪気には笑えねえ
だけど、と獄寺は思う。やっぱり似ているのかもしれない、と考える。幸せが目の前にあったとしても、掴む勇気のない、そんなところが。
獄寺は、笑った。
ひとごとならばこんなに簡単に、どちらが賢い選択なのか、考えることができるのだ。
唇が離れて行くと、日向のような、プールの後みたいな匂いがした。きっとそれは記憶の中の匂いだった。記憶の中の、夏の匂いだった。
風が吹き、幻の匂いを跡形も無く吹き飛ばして行く。獄寺は、山本の首筋に歯をたてる。なぜだかそんな甘えたことを、やってみたいような気がしていた。
「ここじゃやばくね?」
山本の声は、笑い声のような、くすぐったがっているような声だった。
「シャワーも完備じゃねえのかよ」
喜んでいるかと思ったのに、
「なんか、あったか」
山本は穏やかな声を出した。
風が鳴っている、と獄寺は思う。夏の緩い風ではなく、夕方、凪ぎの湖を渡るような、秋の風だった。夏も、もう終わる。その風の音が、耳を塞ぐように鳴っている。
「あるわけねえだろ」
「うん」
ただ、誕生日が近いだけだった。誕生日と、それに続く数日は、いつも押しよせる風のようにやって来る。湖の波のようにやって来る。
抱きあったまま、山本はもう一度、獄寺にキスをした。獄寺は唇を動かす。
「なに」
山本は獄寺の目を覗き込む。笑っているような、獄寺の好きな目をしていた。オマエとすると、夏のプールみてえな匂いがする、獄寺が言うと、山本はどう言うわけか赤くなった。
「褒めてねえよな、それ」
「あたりめえだ」
それでも、と獄寺は思う。
褒めてやってもいいのかもしれない。未来の世界でも、それ以前も、どんな我が儘をぶつけても、山本は獄寺を諦めなかった。そのことくらいは。
「オマエ、責任取る気はあんのかよ」
「え?」
山本は、獄寺が聞いたことがないような声をだした。珍しく、赤い顔のままだった。
「無駄な期待してんじゃねーよ、バァカ」
せせら笑ったつもりが上手くはいかなくて、獄寺は笑い出してしまった。どうしても、笑わずにいることはできなかった。
「なあ、」
「俺の奥歯の話だ、つーの」
永久歯だったら二度と生えてこねえんだからな、と脅したのに、山本もまた笑っただけだった。
「責任、取るよ」
あたりまえみたいな声をだした。
こんなに風が吹いているのに、と獄寺は思う。山本の声ははっきりと、獄寺の耳に落ちた。身体をよせ合っているからかもしれない、近くにいるからかもしれない。けれど、本当のところは獄寺にもわからなかった。
「どう、」
どうやってだよ、と、続けようとした言葉は、獄寺の口から出て行くことができなかった。
「俺のこと、嫁さんにもらってよ」
「バァカ」
「だめ?」
「話が逆だろ」
風の音がうるさくて、山本の声は聞こえなかった。それでも、笑い声は合わせた肩と背中から、体温のように伝わっていた。
「だって、嫁に来て、つったら、獄寺断んだろ」
「どう言う理屈だよ」
「俺は、どっちだって構わねえってことな」
抱きしめられ、獄寺は少しもがく。風が吹き、プールの上を鱗の波が通る。幾度も、波は途絶えることがないようだった。獄寺が見つめていたのを気づいたのだろう、山本も顔をあげた。
「きれいだな」
雨のような音がしていた。
「ああ」
いつか、自分はあの手紙の束を手にするのだろうか。
──冗談じゃねえ、
獄寺は考える。
自分の親の恋バナなんて、まともにつきあう気がしなかった。
「くすぐってえよ」
山本は、獄寺の首筋に鼻を埋める。さっきのお返しみたいに歯を立てた。獄寺は身体を捩る。そう、親の恋バナなんてまともにつきあえるはずがない。
自分自身のことだって、こんなに、気恥ずかしいのだから。







END