世界には2種類の人間がいる。
つまり、こちら側でしか生きられない人間と、こちら側では生きられない人間だ。
それは父親の信条だったから、幼い頃、獄寺隼人はそういうものだと信じていた。
──今思えば、ばっからしい話だよな。
屋上のフェンスに凭れたまま、獄寺は片手で紙飛行機を飛ばす。
空は晴れ、遮るものは何もない。フェンスなどとうに乗り越えてしまったから、獄寺の前には空しかなかった。
空と、それから並盛という名の、東の国の小さな町だ。
水彩画のような町並みの印象は、よく見れば緑が多いからなのだと知れた。
獄寺のなじみの海の向こうの町とは、空気の色まで違ってみえた。
小さな国の、小さな町。父親の言う、「こちら側」では生きられない人間ばかりの町だ。
──それじゃあ、俺はどうなんだ
あれは幾つのころだったのか、父親の言葉に疑問を持ち始めたころ、獄寺は城の主治医に聞いてみた事があった。
──『なあ、シャマルはどっちだよ』
──『ああ?』
こちら側でしか生きられないのか、それともこちら側では生きられないのか、そう、獄寺は尋ねたのだ。考えてみればわかることだ。父親に雇われていると言うその時点で、シャマルだってこちら側では生きられない人種ではあり得なかった。
ガキの戯言にはうんざりするという顔をしたくせに、次の瞬間、シャマルはひどくまともな返事をした。
──『雇い主のポリシーにアヤつける気はねえけどな、隼人』
──『お、おう』
──『生きてるってことはそんなに単純なことじゃねえんじゃねえか?』
問いかけの形をとりはしたが、それがシャマルの答えだったということは、今の獄寺にはわかっている。
──ガキのころは、よくわからなかったけど
理解の追いつかなかった獄寺に、猫だって、鳥だって、いろんな色のがいるだろう、そうシャマルは言葉をついだ。
──『水辺で生きるか、空で生きるか。群れに入らねぇ鳥がいたって構わねえじゃねえか。 』
──『お、おう』
わけもわからず頷いたけれど、その時、獄寺の中で何かが変ったたのかもしれない。
こちら側の世界でしか生きられないと言われれば、そんな自分を否定したくて家を飛び出した。それでも結局、行き着く先はいつも「こちら側」の世界で、しかも逃げ出す度に、状況は悪くなったのだけれど。
──その俺が
獄寺は空を振り仰いだ。
今は完全に「こちら側の世界」の外にいる。
──俺だって、こちら側の世界とやらだけでしか、生きられないわけじゃない。
それでも、青く晴れ渡ったこの空の下では、世界は死にそうに退屈だった。
答えなんて見なくてもわかる中学校の授業のせいばかりでもなく、何もかも曖昧なこの世界では、生きてる意味さえよくわからなくなりそうだったから。
──結局俺も中途ハンパなだけかよ
今ならわかる。どうして、自分が最初に意見を求めた相手がシャマルだったのか。
こちら側でもなく、この退屈な世界でもなく、違う答えを求めたからだ。
獄寺の周りの大人たちの中で、シャマルはあのころ、唯一その答えをくれそうだったから。
──ヒットマンでも医者でもなく、どのファミリーにも属さなかった。
マフィアの掟を守りもせず、それでも誰にも指一本ささせない風来坊。
憧れたのだ。一人で生き、一人で消える、覚悟を決めたその姿に。
──だけど俺は俺で、あいつはあいつだ
どうどうめぐりの思考を払い、獄寺はまた紙ヒコーキを手放した。青い空へ吸い込まれるように飛ぶ。それは限りなく、自由の形に近い。
──俺は、10代目と生きると決めたんだから。
その綱吉もまた、こちら側でしか生きられない人間でも、こちら側では生きられない人間でもない。獄寺の求める答えそのものを、綱吉はあっけなく生きている。
──だから、俺は
誰かをボスと呼んで生きるならば、沢田綱吉以外はあり得ない。
「獄寺、」
物思いを断ち切る背後からの声に、獄寺は眉をよせた。
──また、
今ではもう耳に馴染んでしまった、山本武の声が風に乗って聞こえて来る。
「そこ、フェンス腐ってっから危ねーぜ?」
どこか遠くから響くような、けれど、その言葉は嘘だと分かっていた。腐っているどころか、ここだけが一か所、取り替えたばかりで真新しい。
「ごーくでーら」
山本の声は多分屋上の入り口から、けれども風にかき消されがちなその声は、はっきりと意志をもったものの特権で、獄寺の耳に届いて来る。
「なーんてな」
走りよってでも来たのだろうか、次の声を聞いた時には山本はもう、フェンス越し、獄寺のすぐ後ろに立っていた。
「あぶねー遊びだな」
フェンスごと、山本は獄寺の両腕を掴む。
「暑っ苦しい」
「だってあぶねえだろ」
「テメーのほうがよっぽど危ねーよ」
飛びやしねえよ、とそんな軽口は口にだそうとして止めた。
噂話は知らないふりをしていてやろう、そう思う。
「獄寺?」
好奇心にかられてここに立った訳に、きっと山本は気がつかないだろう。
「んだよ」
山本は苦笑のように笑う。
──俺も大慨バカだけど。
髪の毛が触れた山本の胸元には、雨の守護者のリングが下がっている 。
「なーんか、なにもかも、こっから見ると小っせえのな」
山本は獄寺の肩ごしに、からっぽのグラウンドを見下ろしていた。小っせえ、と呟いた目線の先に、消えかけたダイヤモンドとマウンドがある。空の広さに比べたら、本当にそれは小さな染みのようだった。
何もかもが、本当に小さくて遠かった。
昨日までの、戦いの日々に比べたら。
「祝勝会、夕方からな」
ボンゴレリングと、ファミリーの後継者をめぐる争いはやっと終わり、今日は山本の実家で祝勝会だと言う。もっとも表向きはランボの退院祝いだと言ってあるのだけれど、いずれにせよ、戻ってみれば、現実は平穏な日常だ。
それでも命のやり取りをした記憶だけは、見たばかりの夢のように鮮明だった。
──まだ
体中に残る切り傷が、熱を帯びているような気がする。
山本が、獄寺を捕まえている腕に力をかけた。まるで、獄寺が本気で落ちるんじゃないかと思っているように、山本は腕を引く。
「マジウゼエ」
答えは無く、山本の体温を間近に感じた。体に残る傷口の熱が、山本にも伝染っていくようだった。
互いの体の間を一枚のフェンスが隔て、けれどもフェンス一枚、結局それはそれだけの物でしかない。
「てめ、なにがしてえんだよ」
山本が、かすかに笑った気配がした。
「んー。タイタニックごっこ?」
耳元で囁いた大馬鹿物に肘鉄をくらわせ、獄寺は身を翻してフェンスを越えた。
「痛ってぇって。ほんと危ねーのな」
振り返れば並盛はもうフェンスの向こう、見た事も無い町のようだった。
──でも
本当は、フェンスの向こうにある風景は、いつもと何一つ変らないはずだ。
「行くぜ」
振り返らず、獄寺は歩き出した。こちら側の世界の住人でもないくせに、山本はとうとう剣を選んだ。
それはどういう意味なのか、本人に聞いてもわかりはしないのだろう。だから、遅れて歩く山本の影に、獄寺は声には出さず問いかけるしかない。
──おまえ、どんな人生を選ぶつもりなんだよ
あちら側か、こちら側か。それとも山本もまた、その両方を軽々と踏み越えて行くのだろうか。
予感はあった。そう、たぶん出会った時から。
獄寺が立ち止まると、山本は飛ぶような一歩で横にならんだ。獄寺を見下ろし、いつもとは違う静かな顔で笑った。
「おわったな」
秋の風がフェンスの向こうから追いついてくる。
「馬鹿言ってんじゃねえ」
これは終わりの始まりだ。
そう言うと、山本は悪びれもせずに笑った。
「わあってるって」
「野球馬鹿の言う事なんか信用できるか」
「うん」
それでも、静かに笑った山本の顔には、もう一度、わかってると言う表情が浮かんでいる。
それは逆光が見せた錯覚だったかもしれないけれど。もしかしたら、本当にわかっていたのかもしれない、そう思わされるような表情だった。
──スクアーロと剣を合わせていたときから、ずっと?
まっすぐな日差しに射ぬかれ、獄寺は目を側めた。
「いくぞ、ばーか」
それでも、山本が剣を選ぶというのならば、
「獄寺、サボリじゃねえのかよ」
「てめえなんかとサボれるかよ」
「つめてえの」
──俺も
風に吹き散らかされる髪を透かし、振り向けば、そこにはやはり遮るものは何も無い。
「ばーか」
風に散る声が、どういうわけか笑っていた。
──修行が足りねーな
抜けるような空に、獄寺はうそぶいた。
END