アウトストラーダを抜けていく間、雨は一度も降り止まなかった。
フロントグラスを流れる雨に、この雨は山本が降らせているのかもしれないと、獄寺はそんなことを考える。郊外に出ても、雨はまだ降り止むようすはなかった。
助手席に座ったままの山本は、今日は一度もボックスに触れてはいなかった。これほど広範囲に降る雨が、ボックスのせいではあり得ない。獄寺は考え、自分が随分と本気で山本の心配をしていたのだと言うことに気がついた。
──涙雨、なんて
山本にしては出来過ぎているのだ。
アクセルを踏むと、ミラーごしに、山本が笑った。
「飛ばすなって」
「もうつくぜ」
車は寂れたインターチェンジを過ぎ、古い林道へ滑り込む。何かの目印のように、開けた土地へと辿り着いた。けれどもそこは何かの目印ではなく、アウトストラーダを囲む郊外の大半がそうであるように、空っぽな、取り残された土地だった。昨日ここで銃撃戦があったなどと、人は言っても信じないだろう。
獄寺がエンジンを切る間、山本は黙ったままでいた。
雨の降る外を眺めていた。
「先に降りてろよ」
「ああ」
短い答えに、助手席の扉が開く。山本の背広の色が変わり、抱えていた花束から淡い花の香りがたつ。雨の中、花は今朝摘んだばかりのように香っていた。
病人を相手なら、香りの強い花は止めろと、そんな風に言ったかもしれない。けれど、もう病みも眠りもしない相手には、どんな花が良かったのだろう。獄寺にもわからなかった。
だから山本が好きな花を選ぶのに任せた。香りの強い花でいいなら、いっそユリか何かが良かったのかもしれない。
開けた土地の真ん中で、山本が大地に花束を降ろす。それから、片手でぎこちのない十字を切る。雨をはらんだ風が吹き上げ、獄寺は眉をよせた。山本のことを考えていた。
──『なあ、十字の切り方、教えてくんね』
昨夜、不意にそんな事を言だした山本のことを。





「なあ、十字の切り方って教えてくんね」
夕食の片づけが終わると、山本は言った。まるで明日の晩は何が食いてえ?と、そんな風に聞く時と同じ言い方だった。
その言葉だけを聞いたなら、獄寺にもただの酔狂な問いかけにしか聞こえなかったかもしれない。破綻は別のところにあった。山本が作ったラザニアは、今夜に限って塩味が効きすぎていた。
作り直そうかと言われたけれど、獄寺はひとつ貸しだと笑ってやった。いつだって味見もせずにつくるくせに、こんなことは山本には珍しい。エスプレッソマシンに粉を計りながら、獄寺は考える。正確には、計る振りをしながら、だった。
「こう、」
なんでもないようすを装い、獄寺は十字を切る。
「え」
ふいをつかれたのだろう。山本は獄寺の仕草を追いきれなかった。獄寺は思わず、少しだけ笑った。
「笑うなって」
「こう、だよ」
獄寺は揶揄うように滑らかに十字を切ってみせる。山本は途方に暮れたような顔をした。
「身体を動かすことくらいついてこいよな」
「これ、運動と違うじゃねえか」
大きななりをして、子供のようにそんな事を言うから、獄寺はまた笑ってしまった。
「こうだろ」
右手を挙げたまま一度止めると、山本がそれにならう。
「うん」
「額、鳩尾、右、左、だ」
山本は呻くような声をあげた。
「なんか、順番に意味あんのか」
「あるんだよ。意味も順番も」
「そっか」
山本は笑った。無理をしているとは思わなかったけれど、獄寺は感情を顔には出してしまわないように意識する。
山本も、自分もいつのまにかこんなことが旨くなった。そう思うとおかしかった。
「獄寺、」
昔から、負けず嫌いなら二人とも。けれど、
「なんもねえよ」
──キツイときにも、笑う癖
獄寺はそれを、山本に教えられたものかもしれない。
今日、山本が向かった先では小競あいがあった。死傷者をだしたアウトストラーダ近くの抗争は、本部を辞す頃には獄寺の耳にも届いていた。
事件は夕方のニュースでも流れたけれど、ボンゴレに大きな損害は無かった。
──俺が、知っているのはそれだけだ
夜の中、帰ってきた山本からは、かすかに血の匂いがした。
──『ただいま、獄寺』
帰宅の挨拶は日本式で、山本はだからいつも、ただいま、と言う。
小雨もよいの天気のせいか、山本は上着ごと、冷たい身体をしていた。おかえり、と言う獄寺の言葉に、声も無く笑った。
いつもの笑顔といつもの言葉、そこに綻びはなにもなく、いつものように抱きよせられた。
いつものように、すべてがあまりに平穏過ぎて、なにかが苦しいような気がしたのはそのせいだったのかもしれない。雨は匂いを際立たせるから、と獄寺はそんな事だけを考えていた。
──あんな風に
今まで山本の衣服から、返り血の匂いをかいだことはない。
「なあ、獄寺」
「なんだよ」
考え事をしていたから、少しだけ反応が遅れた。
「お祈りの言葉も教えてくんねえ」
獄寺が口を開くよりも早く、山本は言葉を継ぐ。
「ああ」
祈りの言葉を言いかけて、獄寺は言葉を止めた、そういえば弔いの祈りなど、獄寺も暫く口にしてはいないのだ。
──灰は灰に、塵は塵に、だっけ
「気持があれば、十分だろ」
「なんでもいいの」
「ああ」
イタリア語でさえ危うい言葉を、日本語で伝えられる気がしなかった。
「そっか」
──そのほうが、いっそ俺たちらしいだろう
声には出さず、獄寺は唇で笑いをつくる。
──灰は灰に、塵は塵に
山本が少しだけ笑い返した。
──俺たちは
天国の門をくぐるには、余計なものを持ち過ぎている。
「こんな感じ?」
ようやく納得がいったのか、山本は得意そうに十字をきった。
「まーまーだな」
獄寺のいつもの言い種に、嬉しそうに笑った。
「カンタンなんだよ。ワルツみてーなもんだからな」
言ってしまってから、ワルツは4拍子ではないと思ったけれど、山本は気にしていないようだった。短い笑い声に、獄寺は息をつく。
「今度、ワルツも教えてくれよ」
「男二人でワルツが踊れるかよ」
ほんの少し崩れそうなまま、山本はそれを保ってる。自分も笑っていた方がいいのだろう。獄寺はそんな風に考える。
「俺、踊れねえし、獄寺に教わりてえし」
「ばっかじゃねえの」
いつものように、笑いながら獄寺は憎まれ口を返した。山本は不意に黙り込んだ。憎まれ口に対してではない。黙ったまま、山本は獄寺の目を見つめていた。子供の頃から、獄寺を困らせる時には必ず見せる表情をしていた。
「なあ、明日つきあってくれよ」
買い物にでも連れ出すような言い方だった。けれど、どうしても、と山本の目が言っていた。
──おまえは、嘘を吐くのが下手になった。
キツイときにも笑う癖、それを獄寺が覚えたように。
「いいぜ」
山本の腕が伸びて来て、音も立てずに獄寺をかき抱く。
「ありがと」
「いらねーよ。ばーか」
防音の窓ガラス越し、外はまだ、音の無い雨が降り続いている。
「貰ってくれよ」
山本は獄寺の肩の上に、寄りかかるように体を落とした。それから、どちらともなく黙り込んだ。
シャワーを浴びたはずなのに、山本はまだ雨の匂いがした。





雨が上がるのだろう。空の一部が明るく見えた。
涙雨ならまだ足りない。獄寺が思うよりも早く、山本がボックスを解放する。なんの呪文も祈りも無く、青い小鳥だけが空を飛んだ。大地を叩く雨が、すぐに呼び戻されてくる。
──『弔いに水がいるのはさ、あの世で喉が渇かねえように、なんだって』
生まれた国の風習を、夕べ山本はそんな風に言った。
こっちとは反対だ、と獄寺が言うと、不思議そうな顔をしていた。神様の手に渡されるから、死者はもう苦しまない。そう言うと、山本は天井を見上げた。
──『俺は天国に行けるのかな』
冗談のように、異教徒だしな、と笑ったけれど、冗談ではないことはわかっていた。
──『マフィアの行ける天国なんてねえよ』
気休めにもならない獄寺の言葉に、山本はなぜか安堵したような顔をした。
──『じゃあ、俺は獄寺と一緒のところに行けるな』
飲みかけていたカップの向こう、山本の目が笑っていた。
──『ばーか』
空き地にはまだ、雨が降っている。
降り止んだことが無かったように、音を立てて大地を濡らしている。
──だから、涙雨なんて、てめえにゃ出来過ぎなんだよ
声には出さない悪態をつき、獄寺はシートに寄りかかった。後部座席にはワインのボトルが転がしてある。家を出るときに掴んだまま、銘柄も見てはいなかった。
傘をさそうか迷ったけれど、結局ささずに、獄寺は車を降りた。
傘をささない獄寺のために傘をさしかけていた山本は、いつのまにか傘をささなくなった。雨の中、獄寺と肩を並べて歩くようになった。日向の匂いのしていた少年が、いったいいつから雨の匂いを纏うようになったのか、獄寺ははっきりとは覚えていない。
山本は今も、雨に濡れたまま空を見上げている。傍らに立ち、獄寺はワインのコルクを抜いた。香りの強い液体を、そのまま大地へと注ぎかける。
──悪ぃな。安酒でよ
土の匂い、雨の匂いにワインの香が混じる。花の香さえも凌駕する、痛いほどの香だった。
「酒、持って来てたのか」
「間に合わせだけどな」
それでも、この世界で生きこの世界で死んだものになら、十分すぎる弔いだろう。
「土は土に、灰は灰に」
──もう苦しみも、悲しみもなく
「おやすみ」
山本が呟いた。
「Buonanotte. 」
──安らかに
「こっちでも、そんな風に言うのな」
「さあな」
獄寺は空を仰いだ。
「おまえの真似だ」
「そっか」
もうすぐ、雨もあがる。
「着替えて、出直すぞ」
「ああ」
空のどこかで、鳥の声がしていた。





END.