鳥が羽ばたくような、かすかな音が聞こえていた。
──『沢田綱吉』
ドアの外に誰かがいる、そんな気配があった。綱吉は振り返った。記憶の中の声のような、声ではない何かで呼ばれたような気がした。
ドアを開けると廊下の光が流れ込む。眩しさに、綱吉は部屋の明りを絞っていたことを思い出した。
「…く、ろ」
もう寝ようと思っていたのに眠れなかった。だから、これは夢なのかもしれない。
「ボス…」
ドアの外に、クローム髑髏が立っていた。重態のはずのクロームが綱吉を見て笑っている。
鳥の羽ばたく音がしている。
「悪趣味だぞ、骸」
「おや、ばれましたか」
──クローム、骸、ムクロウ、
何が本当なのかは、綱吉にもわからなかった。
「どうして、クロームの姿なんだよ」
言ってしまってから、綱吉はクロームの姿も幻影なのだと言うことに気がついた。明る過ぎる明りの下でも、クロームは薄く透き通っている。
「少し、力をかりました」
「怪我をしてるのに、」
もう一度、骸のクロームが笑った。今度ははっきりと、クロームに骸の面影が重なった。
「知ってますよ。この子は、」
「骸、」
本気で上げかけた非難の声を、骸は片手を上げて遮った。そっと唇に指を翳す。そう言えば、ここは真夜中の廊下なのだと、綱吉は思い至る。
「クロームなら、大丈夫」
「大丈夫なわけ、ないじゃないか」
微笑むように、曖昧な表情を浮かべ、クロームは綱吉を見上げた。まるで、何かを計るように綱吉を覗き込む。
「部屋に、入れてくださらないんですか、デーチモ」
息が掛かるほどの近くに骸がいる、そんな気配があった。
綱吉は一歩を後ずさった。侵入を請う幽霊の場合、その目的は侵入そのものなのだという。だから、部屋に入ることを許した時点で、もう逃げることはできないのだと。
「骸、」
なにか、自分でもわからない力にひかれ、綱吉は笑った。
「おまえ、幽霊なの?」
「さあ」
溜息をひとつついて、骸の気配が遠のいた。
綱吉が身体をずらせば、クロームの姿がわずかに揺らぐ。気がつけば、クロームは綱吉のベッドに腰をかけている。
「幽霊を、そんなに簡単に部屋にあげちゃいけませんよ」
そんな言葉に、つまらなそうな響きがあったのはなぜだったのだろうか。
「おまえ、本当に幽霊なの?」
骸は答えず、言葉もなく微笑んだ。綱吉が覚えているままの笑い方だった。そこに心は無く、けれどもとても穏やかに笑う。
「微妙なところ、とでも言っておきましょうか。精神があまりに長く体を離れると、本当に死んでしまいかねない」
そんな風に、他人ごとのように話すやり方も、綱吉が知っているままだった。
「そうは言っても、僕の本体は今も復讐者の牢獄にいますから。物理的にはしばらくは死ねないと言うことになる」
──10年、
「骸」
骸はまた、穏やかに笑った。
「ボンゴレデーチモでも、会いにはこられないところですよ」
クロームの顔に、骸の笑いが貼りついている。
──復讐者の、牢獄
そこはいったい、どんな場所だと言うのだろうか
──どうして
どうして骸が笑うのか、綱吉には今もわからない。
──ずっと、不思議だった
初めて出会った時から。骸は酷く残酷だったけれど、同じくらい、優しく笑った。
──本当に、優しいんだと、錯覚できるくらいに
「いつから、俺をデーチモなんて呼んでるんだよ」
「さぁ、忘れてしまいました」
綱吉を見ないまま、クロームはムクロウに手をのばす。掌にムクロウを遊ばせながら、クロームはどこか別のところを見ていた。ここではない場所を見ていた。 クロームの姿はしていても、それは骸に違いなかった。
──霧、
10年もの間、骸は何も変らなかったのかもしれない。
「僕たちがどこで出会ったか、覚えていますか?」
「覚えてるよ」
──忘れないよ、
それは口には出せない言葉だったけれど、
「それは、残念」
「俺はおまえほど、忘れっぽくはないからね」
「言いますね」
骸の声は口惜しそうにもおもしろがっているようにも聞こえた。骸の本当の心は、骸自身にもわからないのかもしれない。
「ねえ、骸」
骸が振り返った。
──10年
「この時代の俺は、おまえにはどう見えてたの」
笑うだろうと思っていた綱吉の問いに、骸はひとつ、溜め息を落とした。
「きみにはもう、がっかりでしたよ」
綱吉は絶句する。今度こそ、骸は声をたてて笑った。
「立派なボスになってる、とでも言って欲しかったですか」
「おまえなあ」
どうやら意地の悪さも、この10年変っていないらしい。
10年の後、自分は骸がいったい何を考えているのか、少しはわかるようになったのだろうか。綱吉はそんなことを考える。
「君がもう少しマフィアらしくなってくれていたら、僕も仕事がしやすかったんですがね」
──10年たっても、
きっとわからないままに違いなかった。
「それは俺には無理なんじゃないかな」
「本当にね」
なぜだか心の底から笑える気がして、綱吉は笑った。クロームの姿が揺らぎ、薄れて行く姿の向こうには、ムクロウが羽ばたいている。
「だったら、」
綱吉は梟に手を差し伸べた。
「おまえは諦めず、俺を乗っ取りにこないと」
消えかけるクロームの中に、骸の姿が映った。一瞬だけ見えたと思ったその表情が、驚いたように目を見張っていた。そう見えたのは錯覚だっただろうか。
「俺は、おまえみたいには上手くやれないんだから」
骸が笑う、その声だけが聞こえた。
「しばらく、お別れです。綱吉君」
別れの言葉だからだろうか、骸は聞き慣れた呼び名で綱吉を呼んだ。
「うん」
最後に残ったのは、声に聞こえる骸の思念と、空中に浮かぶ雨の梟だけだった。
「本当はね、君はこの10年たいして変わりもしなかった」
最期になるかもしれませんから教えてあげますよ、と言われ、綱吉はその意味を考える。眠れなかったのは、明日、襲撃をしかける朝だからだ。
それとも、骸のほうが最期になるとでも言うのだろうか。
「骸、おまえ何しに来たんだよ」
今、どこで何をしているんだと、やはりそれは聞けない言葉だった。
「それはね、」
炎の絶えた梟が、綱吉の手の中に落ちる。
──『教えてあげません』
骸の思念は、もう声にさえ聞こえなかった。エアコンディショナーの音だけが、綱吉の部屋に響いていた。つけ放したままでいたことに、今さらのように気がついた。 そこにいたはずの誰かがいなくなった、そんな気配すらもう、部屋の中には残ってはいない。
「ホント、いじわるだよなあ」
綱吉は溜息をついた。やっぱり一生、骸とは友達にはなれそうもない。
──だけど、
ようやく、眠れそうな気がする。
ほんの少し、綱吉は微笑んだ。どうしてなのかは、やはりわからなかったけれど。





END.