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──『雨月は、君のことが気に入ってるみたいじゃないか』
別れ際、ジョットはそんなことを言った。
そもそもそれがわからないのだ、とGは考える。気に入られるようなことをした覚えも無い。遠来の客、しかも自分たちのボスを助ける為にやって来た客だから、それなりの礼はつくしている。けれど、
──んなの俺だけじゃねえ、つーの
異国からやって来たボスの賓客は、礼儀も正しくて、腕っ節も強い。おまけに、この国の人間と並べても見劣りもしなかった。だから、短い間に屋敷はおろか、町中で人の口に上るようになっている。組織にとっても自慢の客分だった。
それなのに、本当にGにだけ懐いている。それが人目にもわかるほどなのだ。浅利雨月という男は。
──くそったれ
誰も見ていないのをいいことに、Gは髪を掻きむしった。
そうしてみても、わずかに癖があるだけのGの髪は、またもとのようにもどってしまう。夜風にあおられ、刺青を掃いた頬の上に落ちて来る。
──くそ、
頬に落ちる髪を、Gは掻き揚げた。本当はこの柔らかな髪も、母親譲りの顔立ちも、なにひとつ気に入ってはいない。そう思う。
それもまた、考えてもしかたのないことのひとつだった。
木立をくぐり、Gは中庭に出る。ジョットの言う通りなら、この辺りに雨月がいるはずだった。
──『月をみているよ、』
と言うのがジョットの言葉だった。雨月はお爺さんのように早起きだから、と、謎のようなことを言った。けれど、
──まさか、
こんな時間から起き出す人間がいる言うのは、Gの理解を超えている。
Gは辺りを見回し、人影がないことに息をついた。揶揄われたのかもしれない、と考える。彼の親友で雇い主のジョットは、時々こう言う他愛のない悪戯をする。
──まったく、
Gは少しだけ笑った。けれど、自分が笑ったことには気づきもしなかった。ただ、風が冷たい、と考えていた。冷たい、けれどそれは、季節が変わる予感のような風だ。月明かりの中に吹く風は、もう真冬のもののようではない。
頬を走る刺青の上に、Gは指をあててみる。考えをまとめようとする時の、それはGの癖のひとつだった。
けれど、
──あいつ、
この頬を一度、雨月に触れられたことがあるのだ、と、そんなことを思い出していた。
頬に落ちる髪を払おうとしたのかもしれない。はずみのように、雨月は一度Gに触れた。それから、Gの刺青に目をあてた。雨月は少し、驚いたような顔をしていた。
──『炎が、』
初めて、Gの刺青に気がついたような言い方だった。その言葉の続きを、Gは覚えてはいなかった。覚えていないのは不思議なことだった。そんな風に、誰かの接触を許すことも、言われた言葉を覚えていないことも、Gにとっては今までにはなかったことだ。
ふいに、木立を揺らす風の音に、Gは耳をそばだてた。聞き覚えのある声が混じっていた。
「嵐どの?」
Gは振り返る。そのときには、利き手にはもうリボルバーが落ちていた。銃口を向けられている相手はけれど、微笑んだままだった。
「良い月だな、嵐どの」
微笑んで、浅利雨月は小さく首を傾げた。
「気配を殺して、人の後ろに立つんじゃねーよ」
「すまない」
謝る、と言う声ではない。Gは雨月を睨みつける。それでも、雨月はまた少し笑っただけだった。
──あのときも、
Gは思う。かざしたままでいた銃を降ろした。
あのときも、雨月はGの刺青に目をとめ、驚いたような顔をした。それなのに、どうしてかふと笑ったのだ。どう言ったらいいのかがわからずに笑ったような、今の雨月が浮かべている表情は、そのときの笑い方に似ていた。
「月を見ているのだと思ったので」
「ああ?」
「邪魔をしないようにと思ったのだ」
──そうかよ
「撃ち殺されても知らねえからな」
「そうだな」
雨月の話すイタリア語は、外国人にしてはまあ、きれいな方だ。Gは思う。Gもまた、片言のジャポネーゼならば操れるから、話は通じているはずだった。
「例の件、上手く行ったぜ」
「ああ」
それでも、会話が噛み合っているのかいないのか、Gにはよくわからなくなることがある。
「ジョットが、おまえのおかげだとよ」
「それは、」
犠牲がなかったのは良かったと、雨月はそういう意味のことを言った。
「光栄だな」
「そうだな」
「良い月だ」
なぜ、月の話に戻るのだろう。なぜなのかはわからないまま、Gは月を見上げた。誰かの言葉に釣られるなんて、ありえないことだ、と思いはしたけれど、
──本当に、
月は明るく美しかった。
「きれいな月だな」
雨月はGを振り返る。また、同じ表情だ、とGは思う。ついこの間、Gの刺青に触れたときと、雨月は同じ表情をしていた。
「今、なんと言ったんだ」
「だから、きれいな月、だろ」
「もう一度、」
雨月に請われ、Gは同じ言葉をイタリア語とジャポネーゼとで繰り返した。同じ言葉を、雨月が真似をする。発音を直してやり、またイタリア語と日本語とを繰り返した。何度かそうして真似をさせ、Gはようやく、雨月がその言葉を知らなかったのだということに気がついた。
「今夜の月はきれいだ」
雨月は言う。
「この国はきれいだ」
「ああ?」
この街はきれいだ、空はきれいだ、と雨月は繰り返した。練習か、言葉遊びのつもりなのだろうか。それとも、今まで言えなかったことを言ってみたいのだろうか。雨月は同じ言葉をくりかえしている。そのようすが、Gにはなんだかおかしかった。
声をたてて笑うと、雨月はGを見る。それからまた、脈絡もなく笑った。
なぜ、笑うのだろう。相変わらず、Gにはそれはわからなかった。けれど、それでもいい。Gはそんなことを考える。たった今、自分が笑っているそのわけでさえ、Gにだって結局わからないのだ。
「嵐どのも、きれいだ」
雨月はGを見る。Gの頬に、手を触れる。
「嵐どのの炎は、とてもきれいだ」
Gは笑った。頬から首筋を落ち、右半身を覆う炎の入れ墨を、きれいだとはあまり言われたことが無い。それから、この男の前でこんなに笑うとは思いもしなかった。そんなことを考えていた。
「おまえ、それおかしいぜ?」
どうして自分は笑っているのだろう。もう一度、考えたけれど、やっぱりわからないままだった。
「間違っているのか」
「そうだな」
「では、どう言ったらいい」
それもまた、Gにはわからないことのうような気がした。
わからないことは、Gにとっては考えても仕方の無いことだ。
──喋りすぎたか
「いいのを考えといてやるよ」
背を向けると、雨月の手が追いかけてくる。いつもなら、捕まることの無い他人の手に捕まえられ、Gは振り返った。自分と、自分を捕まえることができた雨月に驚いたのかもしれなかった。
「なんだよ」
言葉を返しても、雨月はGを捕まえたままでいる。
「嵐どのの、本当の名を教えてくれないか」
──そんなものは、
忘れてしまった。いつもなら叩く軽口は、なぜか口にだせなかった。
「知ってどうするよ」
「呼んでみたい」
冗談だろうか、Gは思う。月明かりの中、雨月は笑ってはいなかった。一度ならず、Gにも見覚えのある表情をしていた。
「また、今度な」
指を解かれると、自分の方が雨月を捕まえていた、そんな錯覚があった。月が雲に隠れるほんのひととき、Gは足を速める。
風が鳴っている。
冬の終わりの風ではなく、温かいような風だった。Gは、最後に見た雨月の顔を思い出す。
はじめてGの刺青に触れた時と同じ、驚いたような顔をしていた。
──驚いて、
少し、途方に暮れたような顔だった。
──なぜ
あんな顔をするのだろう。
それもまた、Gにはわからないことのひとつだった。
こんな時期に、
──こんな月の夜に
まだ早い、春の夜の風が吹いている。そのわけが、わかりはしないのと同じように。
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