秋の風が、プールの上を渡って行く。銀色の鱗のような小さな波が、豪雨のような音をたてている。
こんな光景をどこかで見た、獄寺は考えていた。
幼い頃、夏の終わりに訪れた湖の避暑地で見たのかもしれない。雨かと思って見上げれば、空は相変わらず晴れたまま、幻の雨の雨音だけが、一斉に湖を渡って行く。
──今頃になって、
どうして自分はそんなことを思い出したのだろう。獄寺は考えたけれど、答えはよくわかっている気がした。
「ごーくーでーら」
プールサイドの日陰では、山本が間の抜けた声を出している。
秋だと言うのに、空は夏みたいな色をしている。日差しは暑く、野球バカはユニフォームをはだけたまま、炎天下の犬のように仰向いている。仰向いた喉にも、閉じた瞼にも、汗が滲んでいた。獄寺は笑った。
──きっと、
湖のことを思い出したのは、山本がそこにいるからなのだ。
「あっちいーなー」
山本は喘ぐような声をだす。日陰に座っているくせに、ぐったりと目を閉じている。獄寺には見覚えのある表情をしていた。
夏の間、冷房を効かせた部屋の中で、何度も見た表情だった。塩辛い瞼に口づけをすると、山本は、切ないみたいに目を閉じた。
冷房の効いた、水の底のような部屋の中で、夏の間、何回のキスをしたのだろう。
山本とそんなことをする度に、獄寺はどこか、プールの後みたいな匂いがするような気がした。真昼にシャワーを使ったりするせいなのか、身体に残る怠さのせいなのか、理由はわからなかった。
「帰んねえの」
目が合うと、山本は笑う。
「帰らねえよ」
獄寺は返した。ついでに、
「先、帰れよ」
そうつけ足してみたのだけれど、山本の返事は聞こえなかった。返事をしなかったのかもしれなかった。
豪雨のような、プロペラのような音を立て、銀の波が吹きすぎて行く。風が、日向の熱気を吹き払って行く。昼間が夕方へと変わる、その時刻の風だった。
──連れて来たわけじゃなかったのに、
獄寺は思う。
偶然行き会った校庭で、山本は部活を終えたところだった。誘ったわけでもなかったのに、山本はそのまま、獄寺について来てしまった。
──『部のやつと帰んねえでいいのかよ』
追い払う気がないのは見抜かれていたのかもしれない。
──『ヘーキじゃね』
山本は笑った。本気で追い払う気は無かったけれど、舌打ちくらいはしたくなるような笑い顔だった。
それなのに、
──『俺、いつもこんなだぜ』
獄寺は舌打ちをするのを諦めてしまった。
──知ってる、
と思った。
親しい人間が多いようで、山本は案外、特定の誰かとツルんでいるわけでもない。それとも、なかった、と言った方がいいのだろうか。
特定の誰かとツルんでいるわけでもなかった山本は、あるころから、獄寺たちのところで昼を食べるようになった。それから、どう言うわけか、獄寺を見つけると必ずよってくるようになった。それが結局、今に至っている。
──オマエは、
獄寺たちといるようになる前、山本はいったい誰と昼を食べ、誰と笑っていたのだろう。
獄寺は思うことがある。
──どこにも、落ち着かねえで
それでも、誰かしらが傍に集まる、恵まれた人間。自分とは正反対の人間だ。山本のことを、獄寺はそんな風に思っていた。
だから、
──大嫌いだった。
山本が投げた小さな石が、凪いだ水の上を渡って行った。山本は短く、口笛のようなものを吹く。
「俺、上手くねえ?」
投手のクセに何言っていやがる、獄寺がそんな言葉を返すよりも早く、また豪雨の波が押しよせて来た。山本の小石はどこへ落ちたのか、もう見えなくなってしまった。
水の底に沈んでいるのは、小石ではなく、人魚の鱗だ。獄寺は思う。どうしてか今頃の季節、こんな風の吹く日には、その方が似合っているような気がした。
耳元を吹きすぎる風が、シャツの襟を揺らし、音をたてる。
振り向くと、山本は獄寺を見る。帰ろう、とは言わなかったけれど、獄寺を待っているような顔をしていた。ずっと、そこで待っているような顔をしていた。
獄寺は日陰に入り、それから、山本の隣に腰を降ろした。
帰る気にはなれなかった。ましてや、昔話をしようなんて、そんな気持ちにはもっとなれなかったのだけれど。







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