湖の避暑地の館には、二脚の椅子が並んでいた。
ダイニングから、談話室、それから寝室へと、館の奥へ通じる廊下の中程に、まるで誰かが座るかのように、椅子が二つ、並べられていた。
椅子の片側にはテーブルがあり、よけいに奇異な眺めだった。普通ならテーブルを挟んで椅子を置くのだろうと、幼い獄寺は思っていたのだ。
一度だけ、あまりにしつこく聞いたからかもしれない、呆れ果てたような姉の返事が帰って来たことがある。
ばかね、と前置きのように姉は言った。
──『椅子がなければ、足をなくした人魚が困るでしょう』
それは結局、獄寺の疑問の答えにはなっていなかったのだけれど、
──『人魚は足を貰ったんだろ』
そんな、獄寺の答えもろとも無視された。
今にして思えば、それ以上の会話は、誰かに止められたのかもしれない。
──あの時は、もう
人魚はこの世の人ではなかったのだ。
──足のない、人魚なんて
姉にしては、随分持って回った言い方をしたものだった。
「獄寺?」
獄寺が笑ったことに気がついたのだろう。山本が、獄寺を呼んだ。部活の時間もとうに終わっているのに、どこかでピアノを弾く音がしている。
──へったくそ
だけど、できすぎている、と獄寺は思う。思い出の、湖の館のことを考えている時に、ピアノの音を聞くなんて、幽霊のいたずらにしてもでき過ぎていた。
避暑地の館の廊下の奥にはピアノ室、と、獄寺だけが呼んでいた部屋があった。
誰も使うことのない部屋だった。
「ピアノの音だな」
山本の声に、獄寺は振り返る。
「ああ」
答えると、雨のような、豪雨のような波の音は、まるで演奏会の拍手のようだった。
「俺にも、聞かせてよ」
「何をだよ」
山本の言葉は、時々とてつもなく突拍子もない。答えてしまってから、獄寺は何を言われているかに思い当たった。
「獄寺のピアノ」
「誰が?」
「獄寺が」
獄寺は笑う。
「弾かねえよ」
いったいどこで聞いて来たのだろう。獄寺は山本にはピアノの話をしたことがない。弾いているのを見せたこともなかった。
「聞きてえのに」
「知るかよ」
山本の真似をして石を投げてみたけれど、上手くは飛んで行かなかった。
「投げ方、教えっか?」
「いらねー」
湖の館のピアノの脇には毎年、決まって新しい花束が置かれていた。室内の飾りと言うには華やかすぎる花束は、誰かが演奏会から持ち帰ったばかりのようだった。
その部屋を使っている人のものなのだろう、とは思っていたけれど、
──持ち主を、見たことがなかった
本当は、もっとずっと幼い頃に、その部屋で獄寺と遊んでくれた人がいた。そのことを、その頃の獄寺は思い出すことができなかった。
──ピアノの、お姉さん
獄寺に初めて、ピアノを教えてくれた人だった。
── 一度も、忘れたことはねえと思ってたのに
けれど、人の記憶はいつも、不完全で頼りがない。獄寺が記憶の意味に気づいたのは、ずっと後になってからだった。
未来の世界で、手紙の束を見せられた。それからずっと後になって、湖の館のことを思い出した。二脚揃えて並べられた、仲のいい椅子のことを思い出した。
あの世界の自分はいつ、記憶の意味を理解したのだろう、それともそんな出来事もすべて、あちらでは起こらなかったことだったのだろうか。
獄寺は無意識に笑った。なんだか、可笑しいような気がした。
──足をなくした、人魚姫、か
湖の館に出かけていたのは夏の終わり。毎年、獄寺の誕生日の少し後。いつも今頃の季節だった。考えてみれば随分と、季節外れの避暑だったのだ。
「帰らねえの」
山本が、諦めも悪く尋ねる。いつの間にか、日差しはもう傾きかけていた。この頃の夕暮は短いから、夜はすぐに来るだろう。
「帰んねえよ」
それもまた、夏の避暑地で覚えたことだった。
山本は何も言わないでいる。自分が駄々をこねているような気がして、獄寺は唇でだけ笑った。それから、人魚の話を知っているか、と、山本に尋ねてみた。それは気まぐれのようなものだったけれど、山本は、獄寺を振り返った。
──なあ、人魚姫、
声には出さない独り言を、獄寺は呟いてみる。
──あんたは、後悔しなかったのかよ
違う世界の生き物を、こんなに、大切に思ったことを。
それは、ずっと、獄寺が人魚に聞いてみたかったことだった。







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