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──キャロルの声が聞こえる
そんな気がして獄寺は目を開いた。
目を開くと同時に覚醒し、我ながら自分の神経質さに眉を寄せる。
クリスマスが近い町のざわめきに混ざり、冷えた空気とキャロルの歌声が流れて来る。どこかで窓が開いたままなのだろうと思いつき、獄寺は起き上がった。
部屋の空気は暖められ、起き抜けだと言うのに寒さは感じなかった。それでも、ベッドの上に、この部屋のもう一人の住人の姿は無い。
少し前に玄関の開いた音がしたから、メルカートへでも行ったのかもしれない。
──出かけるなら、戸締まりはしろっつったろが
開け放すことの多い家で育ったせいなのか、山本にはなかなかその習慣が身に付かなかった。
かすかに聞こえる歌声を辿り、獄寺はキッチンの扉を開いた。ひと気のないキッチンの中に、遅い午前の光が差し込んでいる。拍子抜けするくらい明るい光景だった。
とても男二人、しかも穏やかとは言えない稼業の男が暮らしていると家とは思えない。キッチンの周りを見回し、獄寺は開け放したままの天窓へ手をのばした。
調子の外れたキャロルの声は、たぶんここから流れ込んでいる。獄寺の身長でも背伸びをしてようやく届く窓だった。その窓を、山本はいつも当たり前のように開く。
立て付けの悪い木枠の窓と、この日当たりのいいキッチンを、山本は気に入っている。こんな古いアパルタメントを選んだのも、このキッチンが理由のひとつだった。
──『てめえ、セキュリティって言葉を知らねえだろ』
──『かえって絶対わかるんじゃね。音たてずにはどこも開けねえし』
そんな風に言って、山本は日に焼けたままだったキッチンを白のペンキで塗りなおしてしまった。
流れ込んで来るままのキャロルの声に八つ当たりをするように、獄寺は手荒く窓を閉ざした。
12月、町がクリスマスの装いをはじめるこの時期に、いつまでたっても慣れることができない。
銜えた煙草に火をつけると、無意識のようにエスプレッソマシンのスイッチをいれた。
寝なおすには目が覚め過ぎてしまった、そう誰にともなく悪態をつきながら。


──『なあ、獄寺』
昨夜、メルカートからの帰り道、山本は獄寺の手に手を伸ばして来た。人目に立つのが嫌だからと言う獄寺の言い分を尊重し、普段の山本はそんなことはしない。
──『ん、だよ』
咎めるように顔を見上げても、絡めた指は解かれることはなかった。
──『クリスマス、嫌いか』
ふいにそう訪ねられ、獄寺は足を止めそうになった。一度もそれを口にした憶えは無かったし、山本とクリスマスの話をした記憶もない。
獄寺の返事を待つように、山本は獄寺を見下ろしている。
──『べつに、』
隠す程のことでは無かったのかもしれない。けれど理由を聞かれても説明できる気がしなかった。
──『そっか』
上手にはぐらかしたとは言えない獄寺の返答に、山本はいつもの顔で笑った。胸のどこかが痛い気がして獄寺は目を逸らせた。答えたくない問いの答えを、山本は決して深追いはしない。
繋いだ手を引き寄せられて、今度こそ獄寺は足を止めた。
──『山本、手』
──『コートで見えねーから、大丈夫』
本当はもっと言いたいことがあるのに、それが言葉にならないもどかしさに獄寺は眉を寄せた。そんな表情に、山本はやはり笑って、また少し獄寺の手を引いた。
──『山本、』
今度こそ、その手を離させようとしたのだけれど、
──『獄寺、手、冷てえよ』
庇うように、山本は獄寺の手を離さなかった。
──『今だけ。な?』
いつから、こんな笑い方を覚えたのか。凍った息を吐きながら、山本は宥めるように笑った。胸の内側の感情がそのまま溢れたような笑い方だった。
見ただけで切ないようなその表情は、獄寺の息を止めてしまう。繋いだ手と手を隠すように並んで歩きながら、
──『なあ、今年は二人でクリスマスしような』
山本はそんな事を言ったのだ。



それが、昨夜のこと。
獄寺は息をついた。吐き出した煙が輪をつくり、からっぽの天井へと消えて行く。
キャロルの声、山と積まれるパネートーネ、馬鹿みたいに大きなクリスマスツリー。
クリスマスには、いい思い出が無い。
笑い声、家路を急ぐ人の群れ。所詮それは、家族が待つ家がある者たちの祭りだから。
──日本にいる間は、忘れてたんだよな
窓を開けたくはないことを思い出し、獄寺は煙草を捻り消した。ファンを回し、空気を入れ替える。まだどこかで歌声が聞こえる気がして、神経質に耳をそばだてた。
あの国では、クリスマスはなぜかバレンタイン同様、恋人達の年中行事だった。山本が煩く騒ぐので約束をしたら、結局いつもの調子で大人数の集まりになった。
──10代目の家クリスマス会をして、
そんなことも楽しいのだと言うことを知った。
山本はその後も当然のような顔をして獄寺を自分の家に連れ帰ったから、獄寺は何年かぶりに、クリスマスの朝に人の気配のある家で目を醒ました。
──人の気配のある家、家族の気配のある家
あれからずっと、その続きのように山本が獄寺に与えているのものは、暖かい、帰るべき場所なのかもしれない。
──結局、ワガママなのは俺だってことじゃねーか
エスプレッソのカップに手を伸ばし、それがすっかり冷えてしまっていることに気が付いた。淹れ放しにしていたカップの中味はもう、苦いだけの飲み物になっている。
「ただいまー」
玄関の扉が開く音と、何かを引き込む重い音が聞こえた。乾いた小枝を鳴らすような、立ち木を渡る風の音、山脈を渡る冬の風に似た音が聞こえた気がして、獄寺はわずかに眉を顰めた。その音とその気配を、たぶん自分は知っているのだ。
リビングへ続く扉を開けると、山本が振り返る。
獄寺を見とめ、山本はなにか嬉しそうに笑った。冷えた空気と森の香りが、風のように胸に舞い込んで来る。
そっと、獄寺は息を詰めた。胸を押さえ、苦しいようなその感情を、口には出してしまわないように。






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